project: U

プロジェクトの概要

Ⅰ 本プロジェクトの目的

本研究の目的は,第一に,我が国の児童生徒の規範意識を醸成する教育について,人文科学や社会科学をもとにした基礎的な「市民性」の理解,規範教育に関する教育プログラムの実施状況について,海外と多面的・多角的に比較研究することで,東アジアの児童生徒の人権課題に対する教育プログラムを理論的に構築することである。第二に,規範教育に関わる各種の関係機関と協働し,効果的な教員養成や教員研修のプログラムを開発することにある。第三に,実践的研究により効果評価を行い,その有効性を確認することで,児童生徒の法的な規範意識を育成することに深く寄与することを目指すものである。

Ⅱ 本プロジェクトの学問的背景

(1)日本における市民性と人権意識の醸成を重視した規範教育

平成14年3月に閣議決定された「人権教育・啓発に関する基本計画」で指摘されているように,今日においても生命・身体の安全に関わる事象や不当な差別など様々な人権問題が生じている。次代を担う幼児を含む児童・生徒に関しては,各種の統計・調査の結果に示されているように,いじめや暴力など人権に関わる問題が後を絶たない状況にある。こうしたなかで,児童生徒が虐待などの人権侵害を受ける事態も深刻化している。「人権教育・啓発に関する基本計画」は,様々な人権問題が生じている背景として,人々の中に見られる「同質性・均一性を重視しがちな性向や非合理的な因習的意識の存在」,社会の急激な変化などとともに,「より根本的には,人権尊重の理念についての正しい理解やこれを実践する態度が未だ国民の中に十分に定着していないこと」をその要因として挙げている。日本では,「児童の権利に関する条約」をはじめ人権関連の諸条約を締結し,全ての国民に基本的人権の享有を保障する日本国憲法の下で人権に関する各般の施策を講じてきた。また,教育基本法に基づき,人格の完成を目指し,平和的な国家及び社会の形成者の育成を期する教育が,家庭・学校・地域のあらゆる場において推進されてきた。このような人権尊重社会の実現を目指す施策や教育の推進は,「人権教育の指導方法等の在り方について[第三次とりまとめ]」をはじめとして一定の成果を上げてきたが,学校教育における法的な規範意識に基づいた市民社会へ参画する資質・技能の育成はいまだ充分なものとはなっていない。 日本における「法を活用した教育」を対象とした理論研究や実践研究では,第一に,江口勇治らによる法教育(法関連教育)をあげることができる。江口は,アメリカの法教育カリキュラムやプログラムを援用し,法的概念である「権力」「正義」「自由」「平等」など,法やルールの背景にある価値観や司法制度の機能・意義を考えるとともに,刑事裁判判決書の教材作成,模擬裁判を通して法的思考力や法的判断力などの育成を図る。江口らの研究は,法務省に設置された法教育研究会(2003年)の報告書(2004年)に反映され,学習指導要領(文科省2008年)において社会科の内容に組み入れられ,弁護士会,法曹関係者との連携による授業実践も報告されている。近年,「法と教育学会」が設立された。(2010年)ここでは,江口のほかに,磯山恭子,渡邊弘,大杉昭英,橋本康弘,二階堂年惠,小林秀行らの成果を確認することができる。 第二に,海外の市民教育,公民学習の研究をもとに,具体的事例を取り扱う中で法的な判断を取り入れた研究をあげることができる。池野範男は,「具体的な懸案事項に関して意見を形成し社会的な意思決定を行い,自律的判断と合理的共同決定の能力や技能を育成するとともに,意見形成や意思決定の方法,およびそのルールの根拠となる基準,規範や価値の共有化」の必要性を指摘する。ほかにも,桑原敏典,中原朋生,井上奈穂,橋本康弘,溝口和宏,吉村功太郎らの研究がある。 第三に,法と法の適用による司法判断,判決内容の活用を中心とした「法を活用した学習」するものとして,福田喜彦,新福悦郎,山元研二,蜂須賀洋一などがある。これらの研究の背景には,梅野正信による判決書を教材化し,判決書に示される法的見方・考え方を人権教育や市民性育成教育に役立てる研究・実践の提起・推進がある。梅野は,判決書教材を通して「公的で良識的な判断を一つ一つ学び,判断の一つ一つが行動の規範として生かされるような学習」の必要性を唱え,判決書にある裁判所の判断を基に,教師や児童・生徒の法的思考力や判断力,人権や命を守る市民性の育成を目指してきた。梅野は,体罰やいじめによる自殺などの「学校の中で失われた人権」,セクシュアルハラスメントや水俣病などの「社会のなかで侵害された人権」,戦後補償などの「国境でとどめられた人権」などの主題を中心に,判決書教材の開発を進めてきた。 第四に,近年の主権者教育の取り組み,新科目と目される「公共」を念頭において,模擬裁判等の参加型学習の形をとった「法を活用した学習」を提案するものとして,竹澤伸一,船山泰範がある。

(2)中国における市民性と人権意識の醸成を重視した規範教育

東アジアにおいては,日本及び日本と密接な関係にある中国,韓国,台湾において,近年,「法を活用した学習」が積極的に研究や授業実践が取り組まれてきた。現在,法治教育に関して最も大きな転換点にあるのが中国の施策である。中国では,2014年10月23日「法による治国の全面的推進における若干の重大な問題に関する中共中央の決定」が公布された後,小中高に向けて法治教育の「読本」が相次ぎ出版された。2015年始め,教育部は「青少年法治教育大綱」の作成と教育課程に法治教育の導入方法の検討もスタートし,2016年3月か4月に,公布される予定である。品徳―社会系教科の教科書についても,法治教育に関する内容の充実を図る修正がまもなく始まる。2014年12月内モンゴル法制研究センターはもっとも早く法治教育読本を編纂し,中国人民大学出版社から出版した。2015年3月,人民教育出版社「法治教育」,2015年7月,福建人民出版社「法治教育読本」が相次ぎ出版された。2015年末までに,「青少年法治教育大綱」(案)と「学校における法治知識課程の設置を実施する方法(案)」が多様な部門と専門家によって検討されてきた。そして,2016年3月か4月に公布予定である。法治教育は品徳系教科をはじめ,学校全体の教育活動と結合して行なうと同時に,法治教育を施す専門の科目を設置することが決められた。義務教育段階において,内容は基礎的法律常識,法制度,法治原則,法治理念を全面的にカバーするようにと要求されている。教育部の措置は,道徳系教科(品徳と生活,品徳と社会,思想品徳,思想政治)を「道徳と法治」に改称し,移行期に,2016年の下半年「道徳と法治」という「専冊」の作成と他の冊の修正を完成,審査部門に提出し,2017年の秋に小中高の各1年生から新しい教科書を採用する計画となっている。その措置によって,小学校の「品徳と社会」教科書の8冊の中から,中学校の「思想品徳」の6冊から,それぞれ1冊を法治教育の「専冊」とするようになる。 「品徳と社会」と「思想品徳」の課程基準修正版が2011年に公布され,その新しい課程基準に準じる教科書の修正版が2014年12月審査に提出されていた。だが,その審査結果はいまだに明らかにされていない。1月の教科書主編会議において,教科書編纂者に「審査に提出した教科書に法治教育内容を取り入れ,1冊の法治教育『専冊』を作成するように全体の構成を修正して,再び提出するように」と要求された。高校の課程基準は現在修正中で,2016年内に修正・公布される「道徳と法治課程基準」に準じて教科書の作成が始まる。そして,2017年の秋より,1学年から使用される予定である。以上の動向により,中国の法治教育教科書は2017年の秋に発行される見込みである。 このように中国の法治教育は,パイロット的段階にあるが,小学校から高等学校までの体系的なテキストを作成中であり,法的な規範意識を育成するものとして今後の展開が注目されるものである。

(3)韓国における市民性と人権意識の醸成を重視した規範教育

韓国では,2007年の第7次教育課程以後,数次にわたる改訂を経て,2012年の改訂社会科教育課程に至っている。韓国の社会科で追求する人間像は,「弘益人間の理念の下ですべての国民に人格を育成し,自主的生活能力と民主市民として必要な資質を備えるようにし,人間らしい生き方を営むようにして,民主国家の発展と人類共栄の理想を実現するのに尽くすようにすること」と明示されている。こうした理念に合わせて,改訂された社会科の学習内容で規範教育と関わる部分をみてみると,社会科の目標は,「社会生活に必要な知識と機能を学び,これをもとに社会現象を正しく認識して,民主社会の構成員に要求される価値と態度を持つことによって民主市民としての資質を備えるようにする教科」と規定されている。社会科で育成しようとする民主市民は,社会生活を営むのに必要な知識をもとに,「人権尊重」「寛容と妥協の精神」「社会正義の実現」「共同体意識」「参加と責任意識」などの民主的価値と態度をもった子どもたちである。韓国の社会科教育課程では,第3学年及び第4学年と第5学年及び第6学年がそれぞれ一つのまとまりとなった形で学習内容が示されている。特に,「人権」を視点にして,日韓の社会科のカリキュラムの目標・内容・方法を比較してみると,日本の社会科教育との共通点が数多くみられる。例えば,日本の第3・4学年で取り扱われている地域に関する学習は,韓国のカリキュラムにおいても同様に取り上げられている。また,第5・6学年で取り扱われている国土・歴史・政治などに関する学習も韓国と日本で共通している。しかし,韓国と日本の社会科のカリキュラム上の位置づけで異なっている点は,多文化化や性役割などに関する内容が第4学年で提示されている点である。日本では,第3・4学年の社会科学習指導要領のなかでは,こうした内容に対する提示がないため,日韓で共通したカリキュラムを検討する場合,多文化化や性役割に関する内容をどのように教育課程で位置づけるかが検討しなければならない問題である。

(4)台湾における市民性と人権意識の醸成を重視した規範教育

台湾における「法を活用した学習」としては,2004年より学校で「品德教育促進方案」を推進してきた。2014年-2018年を品德教育深化段階と定め,“學校教育から家庭教育および社會教育に拡め,品德,教養あり,感謝を知り,法治を理解,人權を尊重する現代公民素養をもつ國民を育成する”。 教育部2016年度の政策実施方針の中,第一と挙げられた方針でも「質高く,かつ國際視野もちの世界公民」との文がある。台湾では,2014年に公布され,2018年に実施予定の『12年教育課程』の「二 課程目標」に公民としての責任を育成する視点が明示されている。特に,注目されるのが,『12年教育課程』に示されている「四,涵育公民責任 厚植民主素養,法治觀念,人權理念,道德勇氣,社區/部落意識,國家認同與國際理解,並學會自我負責。進而尊重多元文化與族群差異,追求社會正義;並深化地球公民愛護自然,珍愛生命,惜取資源的關懷心與行動力,積極致力於生態永續,文化發展等生生不息的共好理想。」の部分である。ここでは,公民としての責任を育成するために,「法治観念」「人権理念」などの概念が登場している。また,『12年教育課程』の「七 実施要点」には,「(二)課程設計與發展 2.課程設計應適切融入性別平等,人權,環境,海洋,品德,生命,法治,科技,資訊,能源,安全,防災,家庭教育,生涯規劃,多元文化,閱讀素養,戶外教育,國際教育,原住民族教育等議題,必要時由學校於校訂課程中進行規劃。」と記載されており,「安全」「防災」などの新たな視点が明示されている。こうした『12年教育課程』に見られるキーワードを抽出すると,「法治観念」「人権理念」などの概念が日本・中国・韓国と共通しており,これらの概念を育成するために,学校教育プログラムを充実させることが期待されている。台湾でもすでに台北教育大学が中心となって,学生向けには法治教育に関するパンフレットやプログラムが作成されており,今後の状況を把握していくことが必要となっている。

Ⅲ 本プロジェクトの到達目標

本研究では,上記の学問的背景を基盤として,兵庫教育大学大学院連合学校教育学研究科を構成する兵庫教育大学,鳴門教育大学,岡山大学,上越教育大学に在籍する研究者の学際的・国際的な共同研究を行うものである。 本研究で研究協力者としている海外の研究者は,いずれも各国で規範教育に関わっており,それぞれの知見からすでに本研究プロジェクトへの協力体制を構築している。また,それぞれが専門としている研究分野も歴史的アプローチ,評価的アプローチ,カリキュラム的アプローチなど研究手法が多様であり,対象としている学校種も幼稚園から高等学校・大学に至るまで多岐に及んでいる。 こうした研究体制によって,教育プログラムの内容を関連する周辺領域・教科をも包含して充実させるとともに,幼稚園・小学校・中学校・高等学校の各種段階の教育プログラムを体系的に構築することが本プロジェクトの到達目標である。